”物語の脇役になって大分月日が経つ”(宇多田ヒカル”2時間だけのバカンス”より)のフレーズが脳内に流れた瞬間でした。
親にとって子どもが特別な以上に子どもにとっての親、特に母親は特別な存在なんだと思う。
こうやって漫画を描いている間も「ママはもっと可愛いよ?」と言ってくれる娘。
子どもが母親を見るとき、そこにはとっても分厚い愛のフィルターがかかっているに違いない。
「ママはママだよ」
「おばちゃん」「おばさん」は基本的には侮蔑的な呼称で自称する分には問題がないけれど、他人が誰かに向かって言えば失礼な言葉になる(子どもが単純な呼びかけとして「「おばちゃーん」と言うのは別として)。
「おじさん」もそうなのかな。
「おじさん」より「おばさん」の方が失礼な気がするのは、私が女性ゆえ?
娘は私が自分を「おばちゃん」と言うのを聞き自虐的に感じたのだろう。
「おばちゃん」と自称するのは結構心地よかったりするんだけどね。
もちろん飲みの席で普段もハラスメント発言多めの誰かが調子乗って「おばちゃん」と言ってきたりしたら、ソイツが一番言われたくない言葉をモジったあだ名で翌日から呼んでやるけどな。
母親になると子どものことが中心になって母親という型の中に自分を閉じ込めてしまうようになる。
自分はもう主役じゃないのだ、と脇役どころか裏方になったのだ、と言い聞かせ自制する。
「自分はもう”おばさん”なのだから」と。
そしてそれはそれで主役だったときよりも精神的に楽だったりもする。
でもそれに安住してしまうと何かを主体的にやる勇気も気力もなくなってしまったりして。
経験則が追い打ちをかけ「今更自分がやってもね」と何でも諦めモードになり、同時に何かに熱量を持って励んでいる同世代に嫉妬も感じて。
娘の言葉は
「ママ、自分のこと卑下しないで。ママは自分が思うより素敵な人だよ」
という私への叱咤激励のような気がした。
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